平成30年度 第2学期終業式 校長式辞

今年もまもなく終わろうとしています。本当にいろいろなことがあった1年でした。今年の漢字は「災害」の「災(サイ・わざわい)」です。あの7月豪雨から5ヶ月たちました。被災された皆さんはまだ大変な日々を送っていることでしょう。つらくはありませんか。周りが平常を取り戻しても、当事者にとってはまだあの日の被害のまま。そういう状況の中で新たな困難を感じていませんか。もしそうであるならば担任の先生や部活動の顧問の先生など誰でもよいので話をしてください。話をすることによって少しでも心の重みが軽くなるのであれば、その話を聞きたいと思っている先生ばかりです。

また、西日本豪雨ではボランティアとして活躍した多くの生徒が総高生の心意気を示してくれました。本当にありがとう。君たちの活躍は今でも被災した方の心に残っています。これからも自分にできる息の長い活動を続けてください。

さて、3年生はすでに進路開拓を達成した人もいますが、残り1ヶ月をきったセンター試験、そして私立大学一般入試、国公立大学個別試験を目の前にして、今、まさにあえぎ、苦しみ、それでも絶対に志望校に合格するんだという強い意志を持ち続けている生徒も多くいます。そういう生徒にとって一番の励みとなるのが、進路開拓を達成した友人たちからの応援です。その応援とは進路が決まったことに慢心せず、これから試験を受ける友人とともに高校の勉強を続けることです。センター試験を受験する人はこれまでの最高点を目指してください。現役生にとってここからが一番学力の伸びる時期です。進路が決まっているからもういいと思っている人は、折角のチャンスを失います。もう一度言います。学力が大幅に向上する時期、がまんしてがまんして耐えきることで人間的に成長する時期が、高校3年生のここからの3ヶ月です。

さて、本日は皆さんに「鶏口牛後」という故事成語から始まるお話をしたいと思います。

「鶏口牛後」、略さず言うと「寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ」とは、たとえ小さな組織であってもそのリーダーになるべきであり、大きな組織の下の地位に甘んじていてはいけないという意味です。「鶏口」は鶏のくちばしの意で、小さな組織の長のたとえ、「牛後」は、牛の尻の意で、大きな組織の下にいることのたとえです。中国の戦国時代、強国の秦に従うかべきか否かで迷っていた小国である韓の国の王様に向かって、遊説家の蘇秦が「たとえ小さな国であっても大国である秦に屈することなく独立を守れ」と説得した言葉です。

私自身国語の教師として、このお話を学習教材として扱ったこともありますが、ある時の出来事を通してこの言葉に対する考え方が変わりました。

私は3年間だけ高校野球の監督をしたことがあります。プロ野球の試合も開催されるマスカット球場で試合をしたことがよい思い出です。その高校野球の監督をしていた時のことです。夏の大会を直前に控えた6月、ある高校から練習試合の申込みがありました。その高校は岡山県代表する強豪チームで、甲子園にも何度か出場したことのあるチームです。当時部員が100名を超えていたと思います。一方私が監督していたのは、20名程度の部員がいる、まずは夏の県大会1勝を目標としていたチームでした。なぜそのような強豪チームから本校に練習試合の申込みがあるのかと思っていると、相手の部長さんが大変申し訳なさそうにこう言いました。「本校には3年間公式戦はもちろん、練習試合でさえ一度も出場したことのない選手がいます。その選手のためになんとか1試合だけでも練習試合をしたいと考え、先生のチームにお願いしています」と。私はこちらこそお願いしますと返事をして、選手にもそういう練習試合の申込みがあったことを知らせました。私のチームの選手は弱くても、野球大好きの生徒が集まるチームだったので、強豪チームとの練習試合だと素直に喜んでいました。

試合当日。15名ほどの選手による試合前のシートノックを見て私は驚きました。とても3年間1度も試合に出場したことがない選手の動きではなかったのです。特に内野の花形ショートポジションのフィールディング・スローイングは流れるように美しい動きでした。私は思いました「もしこの選手たちがうちの野球部に来ていたら確実にレギュラー争いをしている。少なくとも3年間1試合も出場できないということはない。一方、うちは確かに弱小チームかもしれないが、選手たちは公式戦にも出場し、練習試合では必ずどこかの場面で全員出場している。野球をするということで言えば、どちらの方が楽しいだろう。これこそ『鶏口牛後』だなあ」と。試合は両チームの選手ともに力を出し合い、ともに成果をあげた、よい戦いでした。

試合後、互いのチームが片付けに行っていた時のことです。相手方の片付けは実にスムーズでした。強豪チームと我々のチームの違いはこういうところにあるのだなと感心していると、彼らはバックからゴミ袋を出し、全員でグランドのそれぞれの違う方向に走って散っていきました。「えっ、何を始めたのだろう」と思っていると、ある部員はゴミ拾いを始め、またある部員は草取りを始めました。私は相手チームの引率の先生に「先生、お気持ちだけで十分です。どうか早くお帰りください」と申し上げると、引率の先生は「いえ、練習試合でお世話になった学校に対して何らかのお礼の行動をするというのが、私たちのチームの決めごとです。選手たちは試合をしていただいたお礼をしたいだけなのです」

その言葉を聞いて私は、これほどのチームに対して「鶏口牛後」という言葉を心の中でつぶやいた非礼をとても恥ずかしく思いました。

この鮮烈な出来事から、私はこのように考えるようになりました。

小さな集団に属するか、大きな集団に属するか、またトップであるのか、下位なのか、それはあまり関係ない。一人ひとりにとって大切なことは、所属する集団で何を学ぶか、どういう努力を積みかさねるかということである。トップの地位にあっても、その地位に慢心して学びも努力もしなければ、成長もなく実りもない。また、上位にいなくても、学びと努力を重ねていれば、人間的な成長を果たし、大切な生きる力を身につけることができる。そしていつかその力を発揮する舞台に立てる。どういう集団に属しているかが問題なのではない、大切なのは所属する集団で、どのような学びが可能であるかと考え、取り組んでいくか、そして集団の中でどういう働きをするかである。

これから君たちが生きていく時代は予測不可能な時代です。予測不可能とは所属している集団がいくら強固に思えても、それが継続するとは限らないという意味でもあります。これからの時代のキーワードの一つが「自己鍛錬・自己研鑽」であると私は思っています。重要なのは、所属する集団の中でいかに学ぶか、いかに自己鍛錬を図るかです。そして一人ひとりの「自己鍛錬・自己研鑽」が所属する集団をより高いレベルへ押し上げていくことになります。個人の力と集団の力双方のレベルアップによって、予測不可能な時代をひるむことなく突き進んでいけるのです。今、君たちは総社高校という伝統ある集団に属しています。いろいろな学びができる集団です。だからこそ、総社高校という集団の質を向上させるための行動、そして学び・自己研鑽・自己鍛錬という行動をとることで、自身の成長につなげなることを君たちに期待したいのです。

結びにあたり総社高校の生徒・教職員全員にとって、来年が希望の叶う年となることを願い、式辞とします。

 

平成30年12月21日

岡山県立総社高等学校 校長 三谷昌士

 

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